概要:
韓国・仁川経由でウズベキスタン・タシュケントへ。
タシュケントの小さなホテルに宿泊。
フライトでウルゲンチへ。親切な若者に道を教えられ。現地家族とタクシーに同乗。
道を聞くと10人くらいの現地人が集まりました。
ビバの子供たちは陽気で人見知りしません。
旅の目的:
中央アジアのウズベキスタン。
シルクロードが日本で大ブームを起こした40年前、NHKから出版されたシルクロードシリーズのウズベキスタンを中心とする中央アジアの第10巻のタイトルは「アジア最深部」でした。
日本から見ると地の果てあるかのようです。
中国とヨーロッパを結ぶ重要な交易路であったシルクロード。
8世紀以降の奈良、平安時代の宝物が収蔵されている正倉院は、「正倉院はシルクロードの終着点である」と言われています。
シルクロードの歴史は奈良、平安時代よりかなり以前から存在しました。
紀元前6~4世紀、シルクロードの中間位位置する中央アジアではソグド人(イラン-コーカソイド)がシルクロードの商人として活躍していました。
シルクロードの中間に位置する中央アジアは経済的にとても魅力的でした。
時の勢力はこの地の支配を目指しました。
ペルシャ人、ギリシャ人(アレキサンダー大王)、アラブ人、トルコ人、モンゴル人と多くの民族の標的となりました。
最大版図が東はインダス川、西はトルコ、北は中央アジアのティムール帝国(モンゴル帝国の後)時代、科学でも世界最先端であった首都サマルカンドは最も輝きました。
今回訪問するヒヴァ、ブハラ、サマルカンドは中世イスラム王朝の首都であり当時の遺跡が残されています。
旅の準備:
ウズベキスタンは近年、30日内の観光であればビザなしの施策に転換しましたので、ビザなし渡航できます。
宿泊先はネットで予約しました。
宿泊先はほとんどが民泊(家族経営)に近いものでした。
長距離の移動手段はフライトと列車です。
ウズベキスタンの首都タシュケントは日本からの直行便がなく韓国仁川経由でした。
列車予約もネットでした。
東南アジア系のネットでもウズベキスタンの列車予約を取り扱っていました。
ウズベキスタン・タシュケント入国:
朝4時に家を出発し、9時10分の成田発大韓航空で韓国仁川に向かいます。
成田空港の大韓航空のチエックインの係員は日本の航空会社では見ることのない黒人女性でした。
しっかりとした日本語で対応してくれました。
仁川で4時間待ちのタシュケント行きフライトです。

このフライトは大韓航空とウズベキスタン航空のコードシェア便でした。
成田から仁川までは大韓航空機で仁川からタシュケントはウズベキスタン航空機でした。
7,8割の乗客がウズベク人のほぼ満席でした。
航空経路はタシュケントまで砂漠を横断する直線ルートでした。

機内の放送の一部はウズベク語と韓国語のみでした。
機内食はワインと韓国料理を頂きました。

定刻の19時20分、タシュケントに到着しました。
入国審査は顔写真を撮られ、パスポートに入国スタンプが押されました。
手荷物を受け取った後、SIMの売り場へ向かます。
ロビーは狭いのですぐ分かりました。
SIMは現地通貨での支払いになると店員が言うので近くのATMで現地通貨を入手しました。
SIMは7GBで700円、有効期間は1か月でした。
ロビーをでると、日没後の夜でした。

白タクでホテル到着:
ロビー前で大勢のタクシードライバーが声を掛けてきます。
ホテルはネット情報で空港から徒歩数分とあったので歩いてホテルに行くことにしました。
Googleマップでは2.2kmでした。
少し歩きましたが徒歩数分ではないようです。
その時、中年男性が「タクシー」と声を掛けてきました。
車にはタクシーの表示がありません。
徒歩で行くことが少し不安になり中年男性に携帯でホテルの場所を示し料金を聞きました。
500円でした。
白タクに乗りました。
白タク運ちゃんは片言英語です。
しばらくして携帯でホテルの位置を確認すると先ほどより離れています。
ドライバーに言うとドライバーはホテルの住所を携帯のマップアプリに入力した。
ホテルが近くなり、ドライバーは10ドルで行くと言う。
最初、500円と言ったので、当然、拒否しました。
ドライバーも諦めました。
ホテルに到着しました。
あたりに人影はなく住宅街の中のホテルのようです。

夫婦で切り盛りしているホテルでした。
ホテル建屋の入り口で靴を脱ぎます。
明日の早朝フライトで移動するので寝るだけです。
WiFiの接続を聞きホテル予約の情報に従い米ドルで料金を支払いました。
タクシーの呼び方を確認しました。

国内線空港からビヴァへ:
早朝、6時55分のフライトでした。日本時間は10時55分です。
5時に起き、10m2もないホテルロビーは真っ暗でした。
直ぐにホテルのご婦人が出てきました。
「今からタクシーを呼びます。」と言います。
携帯アプリでタクシーを呼びました。
アプリで予約した画面を携帯写真で撮ることを勧められ、写真を撮りました。

画面には既に料金が出ていました。
タクシー料金に乗車時間は関係ないようです。
数分後、タクシーが来ました。
車にはタクシーの表示はなくいわゆるライドシェアのようです。
国際線空港とは異なる国内線空港まで6Kmで250円でした。
空港到着は夜明け前でした。

空港ロビーにはイスラム風の飾り付けがありました。

搭乗時刻は丁度日の出でした。
ウズベキスタン航空フライトに乗り込みます。

ウルゲンチに到着:
搭乗1時間30分後の定刻の8時30分に訪問地ヒヴァ近くのウルゲンチに着きました。

小さな空港でしたので、ロビーまで徒歩です。
イスラム文様のロビー建屋です。

ロビーで荷物を待ちます。

空港からウルゲンチ市内にバスで行くことを決めていました。
ロビーにインフォデスクはあるのですが誰もいません。
デスクのそばに座っている空港の清掃員らしき中年のご婦人にバス停を聞きました。
英語が通じません。
するとこのご婦人は荷物待ちの人々の中に入って行きました。
そして、30歳過ぎの青年を私のところに連れてきました。
この青年が通訳となり、ご婦人からバス亭を聞きました。
直ぐ近くのようです。
青年は一緒に行きましょうかと親切に言ってくれましたが、手荷物をまだ受け取っていなかったのでお断りしました。
手荷物を受け取りロビーを出ました。
そこには出迎えの人々と「タクシー」「タクシー」の声。
この中をかき分け、バス停に向かいます。
バス停に着いたはずですがバス停の看板はありませんでした。
そこには家族らしき子供2人と中年のご婦人が立っていました。
市場行きのバスを待っているか聞きました。
単語さえ通じればことは済みます。
この家族もバスを待っていました。
10分経ちましたがバスは来ません。
家族はタクシーで行くので一緒に行きませんかと誘ってくれました。
遠慮なく同行しました。
少し移動するとタクシーが通りかかり家族はタクシーを止めました。
同乗しました。
運転手に市場と言うと「そうだ」と返答しました。
10分後、タクシーが市場に着きました。
料金を払おうとすると、ご婦人が支払いました。
降車後、お金を渡そうとすると拒否しました。
この家族とはここで別れました。
ウルゲンチからヒヴァへ:
降車場所にオープン席のある小さな食堂がありましたので、中年男性の店員にヒヴァ行きのマルシュトカ(ミニバス)の停留所を聞きました。
全く、言葉が通じません。
そこには中年男性客さんが一人いて、我々に加わりました。
近くにいたタクシーの運転手に聞きましたが分かりません。
中年男性客はちょっと待てと言い、この場を離れました。
しばらくすると青年が現れました。
どこから来たにかと聞かれ、日本と答えました。
青年は英語はどうかと聞いてきたのでOKしました。
説明しますが分かりません。
別の男性が現れました。
男性は私に話しかけますが、
現地語で全く分かりません。
すると、男性は携帯を取り出し電話しました。
携帯が繋がると少しの会話後、私に携帯を渡しました。
携帯の男性は英語で話しかけてきました。
説明すると分かったようなので携帯を男性に渡しました。
男性は携帯で話した後、バス停のある方向を示してくれました。
その道を真っすぐ行けばバス停があるようです。
後から、ビバであったリトアニア人と話になり分かったのですがマルシュトカはウズベキスタンがソビエト連邦時代に導入されたらしい。
現在、地元民はこの言い方をしていなかったことになります。
私はマルシュトカを旅行前のネットで知り現在でも使っていると思い込んでいました。
舗装されていない横道を10分程歩き、中央分離帯のある大通りに出ました。
道路を横断しようと交差点に向かう途中、道路の反対側に多数のミニバスが止まっているところがあり、ここだと思いました。
30年前、ウズベキスタンで道を聞くと多くの人が集まってきたことを思い出しました。
そして、その隣は立派な銀行でした。
銀行で両替をして、その後、ミニバスに乗ろうと思いました。

銀行に入ると整理券発行機の横で整理券を配っている男性がいました。
男性に両替にために整理券が必要か聞くとインフォデスクに係員が来るまで待てと言います。
インフォデスクに女性係員が入ったので聞くと隣の整理券は不要で隣のロビーと言います。
換金窓口には列ができていました。
列に並び待っていると警備員が来てスーツケースをこのロビーに持ち込むことは出来ないと言います。
警備員の指示に従い、ロビー入り口の外側にスーツケースを置きました。
再び、列に並びました。
換金窓口への透明扉越しに前の人が10cm近い札束を米国ドルに換金していましたが米国ドルは数枚でした。
自分の番が来て窓口の部屋に入りました。
若い銀行員でしたが、どこから来たのか、どこへ行くのか、ヒヴァのどこが良いのかなどの換金とは関係のない質問をしてきました。
換金が終了し、ミニバスの停留所に入ります。

そこにいた人に「ヒヴァ」と行き先を言うと、これだと言います。

車内には既に10数人の乗客がいました。
この車は20近い席数があり、5-6の空席はありましたが、寿司詰め状態で、身を小さくして席に着きます。
すぐに満席になりました。出発です。
乗客と区別できませんでしたが料金を集めているのが女性車掌でした。
切符はありません。
料金は50円でした。
途中、乗客が乗り降りします。
降車したい乗客は場所を言いそこに止まります。
そこにはバス停の看板はありません。
ヒヴァ到着:
40分後、ヒヴァ旧市街の北門に着きました。
車掌は途中で下車し、乗客は私一人でした。

Googleマップでホテルを探しますが道が表示されません。
バーが上下し、車は一旦停車する北門には警官がいました。
警官にホテルをgoogleで示し、道順を聞くとホテルまで同行してくれました。
北門をくぐります。
途中、道が石張りの凸凹道になり、コロ付きのスーツケースが音を立てます。
警官はスーツケースを道に接しないように持ち上げるように言います。
スーツケースを守るためにようです。
100m程行くとホテルがありました。

ホテルの受付です。

家族経営のホテルでした。
ここでも入り口で靴を脱ぎます。
米国ドルの料金前払いです。
朝食付き1泊2500円です。
ヒヴァの子供たち:
ヒヴァを散策します。
再度北門に行きました。
北門の両側には食料品店がありました。
その時間は昼休み時で北門前にある高校?から多くの生徒が昼食ハンバーガー(人参?とマヨネーズ挟んだ少し大きめのパン)を買いに来て、店内は大混雑でした。


店の前にいて、混雑ぶりを見学していると、日本語で「コンニチワ」と言う生徒いて、驚きしました。


次の日、登校時間に高校?校舎の前に行きました。
子供の登校の姿はその国の生活ぶりを見ることができ楽しい。
北門側から道路を渡る生徒のために交通整理をする人がいました。

ここには信号機がないので、子供がくれば旗を揚げ、車を止めます。
校舎の前で、カメラを首にかけている私に朝の挨拶をする生徒がいました。
カメラを向けると多くの生徒はポーズをとってくれました。


その後、気が付きましたが隣は中学校のようです。
私が高校校校舎の前に立っていると、200m先の中学校校舎の前では10人近くの生徒がこちらを見て、何か会話をしていました。
高校生ですがタクシーで来る生徒がいました。

お父さんらしき人が運転する車で来る生徒もいます。
生徒を観察していると、写真を撮った女子生徒が私の友達ですと女子生徒を連れてきました。

次の日、旧市街のベンチに腰掛け、旅日記をつけていました。
子供近付いてきて、レポート用紙を欲しがりました。
手にペンで何かを書きそれをレポート用紙に押し付け写して遊んでいました。

次回はビバ巡りです。
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